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いじめられてた自分が大人になって今感じること

このサイトには「学校に行きたくない人へ ~無理していってはいけない~」というページがあるんですが、コメント数が圧倒的に多いです。

それだけこのテーマは関心を抱く方やその渦中にいらっしゃる方が多いのでしょう。私も今なお強い関心をもたずにはいられない問題です。

上記のようなページを用意し、ここで情報を発信したり相談に応じたりする自分がこれまでを振り返り今何を感じているのか、言葉にしたいと思います。

今日は真面目な話だよ。

わたし、余計なちゃちゃ入れないようにトラちゃんを見張っておくね。

(どっちかというとルカちゃんの方なんじゃ・・・)

1.いじめられてた当時の様子

これまでは(滅多にないけど)

「ぼく、いじめられてました」

という話を他人にするとき、まず最初にその程度が「いじめ」という言葉を使うにふさわしいかどうかを非常に気にしていました。と言いますのも「え?その程度で「いじめられてた」なんて言っちゃうの?」という言葉が返ってきた場合、「弱い自分」を意識させられることになるので、そのことが非常に怖かったんです。

ただ、今に至るまでに自尊心をとりもどし、自分が思ったことはもっと大切にしてあげていいんだな、と知った今だからこそ、物怖じせずに伝えたいと思います。 (もう少しいうと「いじめ」かどうかはあまり重要じゃないという想いもあります。ただ、悪質な行為をはたらく人に被害を受けてきたという事実があります。)

主にいじめられてたのは小2、小5、中1、中2、でした。

1-1.小2の被害

小2に関してはもうほとんど記憶はないです。でもその加害者に対する嫌悪感は覚えてます。ただ、その加害者っていうのがもう少し学年が上がると過度にいじられる(で、泣いたりする)タイプの奴だったんで、同情はしないけど、なんだかなあという想いが強いです。

1-2.小5の被害

小5は本格的に辛い1年間でした。筆箱を隠されるだとか、プリントをロクに回してもらえないだとか、しりとりとかミニゲームをしたときに作為的に自分だけ不利な状況に追いやられるとかそういうことが多かったです。

その時の担任の先生が新任(初めて受け持つ生徒がぼくたち)ということもあり、今一つそのあたりのアンテナや機動力に欠けているという事情もありました。

当時からぼくはセルフ評価(自分が自分にもつ価値観)が低い傾向にあり、「どこか自分に非があるからこんな目に合うんだ」という思いがあったのかもしれません。

辛い状況が続く中で、悩みに悩んだ末に母親に訴えても「あんたがちゃんと嫌がらんからそうなるんや」という私を否定する言葉だったのでいよいよ親のことも信頼できなくなりました。

この話は「学校に行きたくない人へ ~無理していってはいけない~」のページでも触れてるけど本当に足元から世界が崩れる感覚がありました。少し家庭が荒れていたということもあり、安心安全であるはずの家がそういう機能をもっていませんでした。

それでも何度か親に訴えることで担任の先生に電話してくれて「席替えをする」という応急処置的な対応をとってもらえたことはありました。(加害者と席が近いというのがひとつの大きな原因でした)他の生徒にはさぞ不自然な席替えに映ったことでしょう。

1年間たっぷり苦しめられましたし、6年生に進級することを考えると「この絶望があと1年あるのか」と心に暗雲が立ち込めるような気持ちになっていたことは今でも覚えています。

ただ、このいじめ問題は思わぬ形で終息へ向かうことになりました。



加害生徒の転校です。



クラスを挙げてお別れ会もしましたが、内心この生徒のことをよく思ってない人はほかにもいたので、後になって愚痴を頻繁に聞くことがありました。ただ当時の私はそこに積極的にかかわろうと思えないくらい傷んでいました。その輪に参加してしまうと想いが爆発して泣いちゃうんじゃないか、というのもあったのかもしれません。

ちなみに小学6年生は本当に本当に平和で楽しい日々でした。家庭では引き続きいろいろありましたが、とても子どもらしい過ごし方をできたと思います。夏休みなんかは男子も女子も一緒に川で首まで浸かって遊ぶような田舎っ子でした。

1-3.中1の被害

中学1年生の1年間もかなり辛かったです。中学生はいくつかの小学校から生徒が上がってくるのですが、隣のマンモス小学校から上がってきた生徒によるいじめの標的となりました。

その時は肩パンという低俗なゲームが流行っており(今でもこれの面白さが分からない)公平の名を借りたいじめにさらされていました。

肩パンって私が攻撃する番になることもあるんですけど、そもそも攻撃したくないし、攻撃力も弱いし、なにより相手を痛めつけたい欲求も自分の力を誇示したい欲求もないからなぜそんなことをやるのか、なぜそんなものが流行るのか意味不明なんですよ。

またそれ以外にも加害生徒が柔道部だったこともあり教室の後ろで柔道の相手をさせられたり、教科書類に落書きをされたりすることもありました。

さらにお弁当の具を取られる(厳密には断りは入れてくるけど断る勇気がなく)ということもあり、学校にいる間は部活動を除いては安息を得られない状況でした。

加害生徒は特定の一人ではなく、いろんな人と肩パンをさせられましたし、また教科書類への落書きをメインにしてくる奴も別にいました。 上靴を隠されたこともありましたし、美術や技術の授業で私が作っているものに勝手に手を加えられたこともありました。

今思い返すと確かにいろんな場面で「断れない自分」はいました。

もうひとつ辛かったのが、なにに感化されてか小学校まで仲良くしてた友達まであっち側に回ったことがあったことですね。
そのあたりから学校に行くのが嫌(というか無理)になり、1週間ほど学校を休んだことがありました。たしか11月の末です。
母親も私が涙を流しながら訴えてやっと「これは本当に辛いんだな」ということが分かった様子でした。

いろいろと辛いことが重なる環境でしたがひとつ、地獄に仏ともいえるのが担任の先生に恵まれたことです。先生からも生徒からも信頼が厚く人気があり、問題を見つけたらちゃんと動いてくれる人でした。

こんなエピソードがあります。
これらのようないじめめいた行いの被害者は私以外にもいました。それほどに治安の悪い学年だったわけですが、この先生は「自由課題」というものを常に出していて、それは内容はなんでもいいから勉強してきたら見てあげるよ、というものでした。コメントを丁寧に書いて返してくれるタイプの先生です。

ある日、他の被害者の様子を見るに見かねた私はその自由課題ノートにその経緯を書いて先生に出そうとしました。筆を走らせて全容は書いたのですが、カバンにしまう前に「いや、しかしこんなことをしても無駄ではないか。自分に飛び火しても嫌だし」と想い、結局は消しゴムで綺麗に消して提出しました。

しかし、その先生は残った筆圧の跡からどうにか読み解いてコメントを残してくれました。それ以上は覚えていませんが、行動を起こしてくれたと思います。

・・・とまぁ、劣悪な環境と恵まれた先生の中でギリギリの状態の中1年を過ごしました。

辛かったけど、どうにか私を繋ぎとめてたのは吹奏楽のおかげもあったかと思っています。この中学1年生の時分は男子部員が私一人で、そのことをいじられる(いじめではなくいじりの範囲)こともありました。

ただなんというんですかね。そこはみんなお子ちゃまというか(私が大人というわけでもないけど)女子ばかりのところには今一つ入ってこれないアイツらなんですよね。もしくはそこをいじるのは何か違うという想いがあったのかも。
部内では女子同士の小さいいざこざはありましたけど、教室でのことを考えると平和そのものでした。

あとは、ここまで読んだ印象では壮絶な1年と感じた人もいるかもしれませんが(いや確かにそうなんですが)、気のいい奴たちももちろんいました。私の加害者にやめるように言ってくれる奴とか、普通に笑いあって話せるやつとか。

ただ圧倒的に辛さが勝っていたというわけです。

1-4.中2の被害

中2も辛かったです。中1のときの加害者とはクラスが離れた(とはいえ隣)けどまた別のモンスターと同じクラスになってしまいました。ただ、1年の頃よりはその加害生徒のことを「程度の低いやつ」とみる雰囲気が一部の力のある男子にあったので、少し救いがあったと思います。1年生の時同様に気のいい友達もできました。

ただ、先生は真逆でした。保身ばかり考えてるタイプの事なかれ主義な女性の先生でした。

相談して加害生徒と3人で話したこともあったけど「○○君もこう言ってるんだし、もういいじゃない」的な言葉が返ってきたの、今でも覚えています。

ただ、さっきも触れたとおりなんやかんやいい人もいたんで、特に何が解決するでもなかったけど、1年間耐えきりましたね。

ちなみに3年生ではこれといった問題はなく平穏で楽しい1年を過ごせました。というのもやっぱり生徒たちも3年生ともなると少しだけ心が成長してるんで、1年生に比べたらヤンチャ度がグッと下がります。

2.平穏な今に至るまでの苦労・行動

ここまでで書いたものが私がいじめられてきたおおよその内容です。

こういった過去が人生のいつのタイミングまで悪影響を及ぼしたか、またどのように「今」を手に入れたかがこの章の題目です。

「いじめられてた」とはいえ、それ自体はその時期が終わるとひとまず解放されます。心にいろんな遺恨や複雑な思いは残しますが、とりあえず安全だという気持ちにはなります。

ここまでの流れで行くとあの苦しみから得た警戒心や猜疑心、弱った自尊心を内面に抱えて、歪んだ人生を歩むことになるのでは?という考えも湧きますが、中学3年は良き学友に恵まれたこと、また高校生活は部活動一本でそれらの辛さは一旦横に置いたような生活でした。

確かに心の底に沈殿したモヤモヤや慢性的な心の疲れがあるのはずっと感じています。うまく笑えていない感覚、ここにいない感覚、自分だけが浮いているような感覚、いろいろ感じるものはありましたがそういったものすべてに蓋をして気付かないようにふるまい続けたのが高校3年間でした。騙し騙しでした。

ですので、問題を先送りにしたとも取れます。

高校の後は大学に進学しました。この大学生活というのは一人暮らしということもあり完全に自分の自由ですから、いろいろとこれまで放置してきた悪い部分が顕在化していく生活でした。

詳細は割愛しますが、アトピーと吃音に非常に苦しんでおり、引きこもりがちでもありました。

転機は大学3回生の終わりごろに訪れます。

大学3回生というと就職活動が始まりますよね。私も周りの動きを見ながら始めたのですが、どうしても払拭しえない「違和感」を抱いていました。いや、この違和感はいつからもっていただろう。きっとずっと前からありました。それを無視し続けてきたけど、これ以上無視ができないほどに膨れ上がってきており、いよいよ直接対峙することになりました。

当時、自分の状態について調べていく中で2つのキーワードに出会うことになります。
それが「アダルトチルドレン」と「機能不全家族」です。
どちらも該当すると思いました。

この辺りから本格的に向き合い、行動していくことになります。
具体的には

・カウンセリングを受ける
・アダルトチルドレンの自助グループに参加する
・母親にこれまでの想いを打ち明ける

があります。

母親にはいつかの実家に帰ったタイミングで「苦しい時いつも我慢してた」「(あなたの)知らないところでたくさん泣いてきた」など言いました。

そのあとは手紙で謝罪の文章が来ました。たしか初めてアダルトチルドレンの自助グループに参加して帰ってきたときに届いていました。すぐに読んで泣きました。

カウンセリングはいつ受けたのか、それぞれの前後関係が私の中でも曖昧になっていますが、諸問題の根源は親との関係にあるということが分かりました。それは確かに同意するところでした。

母親とは何度か手紙を交わすようになり、その内容はいってしまえば「戦い」です。これまで貯めこんできた膿を吐き出す。そのためにはひどい言葉もありました。「お前から生まれてきたくなかった」とか「お前から生まれたことが恥ずかしい」とかなんとかいろいろ。

思えば自分には反抗期というものがなく(最近は必ずあるというわけでもないみたいですが)親にとって都合のいい自分を演じすぎたなという想いがあります。そこに必死に喰らいつきすぎた。

ただ、当時の自分から言わせるとそれが自分の役割であり、そうしないと家族が機能しなかったです。ここまでの文章ではこの事実を納得させ得るだけの情報には及んでいないと思います。が、確かにそうでした。また、ここまで父親の存在が登場してないけど、います。子育てに関して「来るもの拒まず去るもの追わず」的な姿勢でこっちから求めたら相手してくれるけどあまり積極的とはいいがたい感じの人です。まぁ悪い人ではないんですが。

周りは就職活動で内定をとっていくときでしたが、私はそれどころではなかったですし、このままの自分で働くのは無理だと思っていました。結局、内定はどこからも得られず実家に帰ることになりました。大学4回生でどこにも就職が決まらず実家に帰ることになるというのは何か野心があるわけでもない限り相当惨めです。

卒業間際の時期には母親との関係もピーク時よりは幾分穏やかになっており、「就職が決まらなかったとしてもこの子はもう私たちとは暮らしたくないだろう」という気持ちでいてくれました。それは確かにその通りでした。

ただ、別のところで部屋探しをしたりもしたのですが、結局審査に通らず実家に帰ることになってしまいました。それは言ってしまえば所謂ニート生活の始まりなので、言葉にも表情にもしがたい悶々とした苦悩に苛まれていました。

ただ、先に言ってしまうとこのようになったのは最良の選択だったと思います。実家での暮らしはちょうど1年間に渡りましたが、騙し騙しで作ってきた両親との関係を改めて作り直すという時間になり、たくさんの言葉を交わしました。

あ、あと実家に帰ってきて4月の末ごろから派遣で働き始めました。何もせずに飯にありつくのは精神的に耐えられないという想いも手伝って。

ここに書ききれてない辛かった要因は他にもあります。自分の進路を決め切れなかったことや進んだ大学がそもそも志望したものではなかったことなど(自分が原因というものも多くを占めます)。これらもいろんな要素が絡み合った結果の事象だと思ってます。機会があれば触れたいですが、私は4年間の大学生活が本当にクソみたいなものだったと今でも思っています。

1年間、実家で過ごした後は無事就職が決まり、実家を離れました。 仕事の中でもう一度だけ人生史に残るほどの辛い目にあうことになりますが、大きくはこのような経緯で、光が見え始めました。

3.当時を思い返して思うこと

当時を思い返しても「おれはもっと嫌がるべきだった」とは思えないです。たしかにそれができたなら被害は小さいところで止められたかもしれません。ただ、当時はあの振る舞いが精一杯でした。
じゃあ「どうして嫌がれなかったと思う?」と訊かれたらきっとこんな答えを用意すると思います。

「強く嫌がることが自分が嫌がらせを受けていることを認めることになり、そうした自分をダサいと感じるから」

「嫌がらせを受けていることが親に知れたら心配をかけることになり、それだけはなんとしてでも避けたいから」

「「自分は優しいやつだ」というイメージを持っており正当防衛であってもそれに反することをしたくないから」

どれもまぁなんとなく同意できます。

子どもは「親に心配をかけたくない」という想いが強いです。頑張っている親を傍で見ていれば殊更にその思いは強くなります。だから当時の両親のことを考えるともうちょっと安心感を与えてくれても良かったのでは・・・という想いも過ぎりますが、当時私が小学5年生のとき兄が中学生で不登校になっており、精神的にはそっちに付きっきりの状態でした。今だからこんな言い方ができますが、あんな目には遭うべくして遭ったのかもしれません。(そうは思いたくないですが)

辛い目にあってる者からすれば学校っていうのは本当に「小さな檻」のようなもので毎日が絶望、地獄でしかありません。どうして毎日わざわざその死地に赴く必要があるでしょうか。

学校に行くことを拒んだとき、一発で素直に受け入れてほしかったです。 中高年や親世代には「学校は絶対に行かねばならない」「勧んで苦労を買うのは美徳だ」というような思想があると感じますが、「自分たちがそうだったから」という暴論の上に成り立っているルールや秩序は改めていかねばなりません。悪循環です。

当時の自分が加害生徒やその他の矛先になにか報いる方法があったとすれば、それは包丁や金属バットを振り回すという短絡的で危険なものだったと思います。そこに至らなかったのは吹奏楽であったり気のいい友がいたからでしょう。

今でもいじめをする人の気持ちは理解できません。元来、私は人に対する関心が高くない方なので、いじめという手段に限らず積極的に関わろうという気概が希薄です。 あとは世の中には「他人を攻撃したい欲求を持つ人」がいるみたいですね。「マウンティング」なんて言葉もメジャーになってきてますが、それも私には理解しがたいです。

今の自分が当時の時分を否定したり責めたりすることはあり得ません。もし「死」を選んでも止めないと思います。

4.今の自分にできることと、学校現場に望むこと

あの辛かった日々が自分に与えたものがあるとすれば、こういうことだと思います。例えばこのサイトです。

学校に行きたくない人へ ~無理していってはいけない~のページではコメント欄に寄せられた相談に答えています。自分だけの言葉では足りないと思ったときはクラウドワークスで回答してくれる方を募って相談に応えてもらっています。

ただ、正直に言うと相談される内容からは実際の程度を測ることはできません。悲痛な声に応えるだけで自分は無力です。

本当は今の状態を詳細に聴いて学校に電凸するくらいしたいですが、現実的ではないでしょう。相談者本人の想いを無視することもできませんし。でも願いとしてはこの日本のどこにいても声さえキャッチできれば直接的に学校やその団体に介入していけるようになるとよいと思います。そういうネットワークがあればなあ。。。

真剣に生徒に向き合っている教員の方には申し訳ないですが、学校はとかく隠ぺい体質です。外部の者が積極的に介入していくことも認められる世の中になればと思います。もちろんそれを実現する際に危惧せねばならないこともあります。

学校にはもっと警察が介入し、「いじめ」という言葉ではなく暴行罪や名誉棄損罪が積極的に適用されるようになってほしいです。「学校」という小さな檻にいるだけでいろんな悪事が許されるのはもう終わりにしましょう。

今なお同じような目に遭っている人がいれば早く解放されてほしいと思います。


5.ただひとつ、後悔していること

日記です。

私、18歳のとき(1人暮らしを始めて少し経った頃)から日記をつけています。現在進行形で今12冊目です。

中学生のころ辺りから日記をつけてないことだけは後悔しています。当時そんなことに思い及んでなかったら別に後悔とかしないんですが、ずっと「日記をつけたいな」と思っていました。どうしてできなかったかというと家にはプライベートがありませんでした。自分の部屋はもちろんのこと、鍵付きの引き出し等もありませんでした。

12冊書いた今思うのは、やはり過去の文章を読んでいると確かにその時の自分がそこにいて紙面を通して寄り添うことができるということです。

日記は18の時分から私を支えてきた大切なツールです。 辛い時ほどよく筆が走りました。

過ぎ去ってしまえばどうということはない後悔は数知れど、こればかりは今なお悔いてます。 日記があるとあとの人生に「読み返す」という楽しみが待ってますからね。


6.おわりに

私が今苦しんでいる人を「救いたい」とか「助けたい」と思うのはおこがましいことだと思います。そんなことはできないだろうし、当人の苦しみはそんな言葉を簡単に言ってはいけないほど深いものだと考えています。

でも、なにもできなくても声が届いたらせめて掬い上げたいと思っています。 それは例えばこのサイトに寄せられたコメントに返信することです。

できることは少なく、小さいですが、全国の子どもたちが辛さのあまり自分をないがしろにすることがないよう祈るばかりです。

私は「もうこれ以上自分をないがしろにしない」というのが人生のキーワードになっています。

ここまでの文章を読み返していると大学生辺りの件について、人によっては「20歳にもなって情けないことを言うな」「自分の責任だろう、恥を知れ」と思う人もいるかもしれません。ですが、私はつらい過去によって年齢に応じた順当な成長ができなかった人、そういう機会を奪われた人にそういう言葉を掛けるのは不適切だと思います。

自己弁護ではないけれど、置き去りにしてきたものはどこかのタイミングで取り戻さなければなりません。それは残りの人生にとってとても価値の高いものです。だから情けない姿であっても自分の為、ひいては残りの人生でかかわっていく他人のためにも行動を起こすことは大切です。それは誰にも否定する権利はありません。

苦しい最中にいる方に少しでも光が見えますように。

ここのコメントでも掲示板でもなにかあったらお寄せください。

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